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大きめの黒縁眼鏡、後ろでひとつに結んだ黒髪、一切の無駄を省いたリクルートスーツ。どこからどう見ても、華やかなデパート業界には不釣り合いな「地味で冴えないOL」——それが、外商部に入社して二年目になる私の姿だ。
十五年前、老舗『東城デパート』の社長だった私の父は、側近たちの裏切りによってすべてを奪われ、自殺に追い込まれた。
私の本名は東条志乃。人事部長の渋沢さんの手引きにより、親戚の苗字を借りて身元を偽り、このデパートへ潜入した。目的はただひとつ。父を死に追いやった裏切り者たちを、一人残らず社内から叩き潰すことだ。
「おい、佐倉さん」
デスクで朝の資料を整理していると、上から声が降ってきた。
外商部部長、根津栄治。かつて父のカバン持ちでありながら、裏切りの情報を売って現在のポストを手に入れた男だ。
根津は机の上に書類の山を置いた。
「今日から現場研修で入る新人さんの指導係、君に頼むからね。君は真面目だけが取り柄だし、雑用ついでにちょうどいい。しっかり教えてやってくれ」
「……かしこまりました」
私は表情ひとつ変えず、完璧な角度で一礼した。
表面上は丁寧に取り繕って、私はこの男を地獄に落とす計算を巡らせていた。
社会的に、二度と這い上がれない地獄へ落とすことこそが私の復讐だ。15年前の仇のひとりであるこの男を、どう追い詰めていくか。
入社して2年。
復讐を決行する準備は整った。
「さて、さっそくで悪いんだが、新人さんが来る前にメンズアパレルのチーフバイヤー、根津健太のところへこの資料を持って行ってくれないか」
根津健太。根津部長の息子であり、父親の七光りを背景に社内で好き勝手に振る舞っている二世社員だ。
「承知いたしました」
私は資料を受け取り、静かに歩き出した。
まずはこの根津親子。父を裏切って甘い汁を吸い続けてきた最初の標的として、申し分ない相手だった。
◇
メンズアパレル部門のオフィスへ行くと、仕立ての良いスーツを着た青年——根津健太が、女性社員と話をしていた。
「だからさ、今夜の打ち上げ、君も来なよ。僕の親父の顔を立てると思ってさ」
「あの……根津チーフ、今日は予定がありまして……」
困惑する女性社員の前に、私は静かに足を進めた。
「根津チーフバイヤー。外商部の佐倉です。根津部長から資料をお届けに上がりました」
私は眼鏡の位置を直し、淡々とした声で割り込んだ。
健太は少し不機嫌そうに振り返り、私を上から下まで見分めた。
「ああ、外商部の佐倉さん? ご苦労様。……でもさ、人が話してる最中に急に割り込むのは感心しないな。その資料、デスクの端に置いておいてよ」
健太は受け取ろうともせず、あしらうように手を振った。その拍子に手元が当たり、資料が床へ滑り落ちて散らばってしまう。
「あ、悪いね。滑っちゃった。拾っておいてくれる?」
悪びれもせず微笑む健太。
「失礼いたしました。すぐに拾います」
私は静かに屈み、散らばった用紙を一枚ずつ拾い集めた。
健太は私の手元を見下ろしながら、少し馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
(……決めたわ)
一枚一枚、用紙を重ねていきながら、私は冷酷に決意を固めていた。
父親の権力に守られて調子に乗っているこの息子と、それを利用して社内で甘い汁を吸う父親。
まずはこの根津親子を、私の復讐の最初の犠牲者にしてあげる。どう料理して、どう社会的地位を奪ってやろうか——胸の奥で、静かで冷たい情熱が湧き上がっていた。
「これで全部ですね。失礼いたします」
綺麗に揃えた資料を健太のデスクに置き、私は完璧な一礼を残してオフィスを後にした。
(まずは親子関係の綻びを探すことからね。じっくり追い詰めてあげる)
復讐のファーストステップとして、ターゲットは見定まった。
胸の中で冷たい満足感を覚えた、その時だった。
「——すごいですね。あんな風に落ち着いて対応できる人を、初めて見ました」
背後から、低く通る声が掛けられた。
振り返ると、そこには見覚えのない青年が立っていた。
上質なスーツを纏い、育ちの良さを感じさせる端正な容姿。だが、その瞳にはどこか深みのある、鋭い知性が宿っていた。
「あなたは……?」
青年は柔らかく微笑み、胸元の ID カードを示した。
「本日付で外商部に研修配属されました、三島絢人です。指導係を引き受けてくださったと伺いました。よろしくお願いします、佐倉先輩」
三島絢人。
父を殺した最大の元凶、現社長・三島宗一の息子。
私の胸の奥で、復讐の炎が激しく渦巻いた。
だが、絢人は私の地味な眼鏡の奥を、逃さずじっと見つめていた。その瞳には、単なる「初対面の先輩」に対するものではない、観察するような深い色が浮かんでいた。
「……これからよろしくお願いします、三島さん」
私はいつも通りの地味な笑顔を作り、差し出された手を握り返した。
この男を罠に嵌め、三島家を破滅させる。そう心に誓いながら。
書類保管庫の扉の向こうで、警備員の重い足音が止まる。懐中電灯の鋭い光が、わずかな隙間から差し込み、暗闇の中にいる絢人の輪郭を照らし出した。(見つかる……!)私が全身を強張らせたその瞬間、絢人が躊躇なく動き出した。彼は引き戸を勢いよく押し開け、自ら警備員の前に姿を現したのだ。「誰だ!」驚いた警備員がライトを向け、声を張り上げる。「失礼、巡回ご苦労様です」絢人は何事もなかったかのように穏やかな笑みを浮かべ、胸ポケットから社員証を提示した。「あ……三島さま! こんな夜更けに、どうされたのですか?」「明日提出する取締役会の資料に不備が見つかりまして、父の代理で確認に来ていました。驚かせてしまいましたね」「いえ、滅相もございません! 施錠の確認をしようとしただけでして……お仕事、お疲れ様でございます」現社長の御曹司という絶大な肩書きの前に、警備員は深く一礼し、怪しむ素振りすら見せずに立ち去っていった。足音が完全に遠ざかったのを確認し、私は保管庫から滑り出た。端末からUSBメモリを素早く引き抜き、ポケットへ収める。「……危ない橋を渡るのね」「あなたを守るためなら、これくらいは当然です」絢人は悪びれもせず微笑んだ。その揺るぎない態度に、胸の奥のざわめきを押し殺しながら、私たちは足早に深夜の本社ビルを後にした。◇翌朝。外商部オフィスは、普段とは異なる冷え切った緊張感に包まれていた。「おはようございます、皆様」執務室のドアが開き、仕立ての良いスリーピーススーツを身に纏った男が入ってきた。銀縁の眼鏡をかけ、整った顔立ちに冷淡な笑みを張り付かせた男——財務部チーフの大河内駿だった。「根津前部長の不祥事により、外商部のガバナンスが問われています。本日より、外商部が取り扱う一千万円以上の決済案件は、すべて私と財務部の承認を必須とします」駿は傲慢な視線でオフィスを見渡した。「現場の感覚だけで売上を立ててきた旧態依然としたやり方は、今日で終わりです。数字も読めない無能な社員に、会社の財布を任せるわけにはいきませんからね」現場の先輩社員たちが屈辱に顔を歪める中、駿の冷たい視線が私のデスクへと向けられた。「そこの佐倉さんでしたね。根津前部長の元で資料整理を担当していたとか。……まあ、精々これからはミスのないよう、私の指示通りに数字を打ち直す作業
消灯された本社ビルの最上階は、深海のような静寂に包まれていた。足音を殺しながら、私は絢人の背中に続いて役員フロアの奥へと進む。大河内常務の息がかかった財務部の最深部——「特別アーカイブ室」の重厚な電子ロック扉の前で、絢人が立ち止まった。絢人は懐から取り出したマスターカードキーをリーダーにかざし、手慣れた指先でテンキーに暗証コードを打ち込む。カチリ、と小さな電子音が鳴り、重い防音扉のロックが解除された。「入ってください。僕が扉の前に立って見張りをします」「……ええ」室内へ足を踏み入れる。窓のない密閉された空間には、何列ものスチール製書類棚と、オフラインで管理された専用端末が並んでいた。私はデスクに置かれた専用端末を起動し、駆から渡されていた暗号解除ツール入りのUSBメモリをポートへ差し込んだ。画面に緑色の文字列が高速で流れ始める。大河内厳常務と、その息子である駿が過去五年にわたって構築してきた、海外ペーパーカンパニー群の資産移動ログ。巨額の裏金が東城デパートの正規口座から巧妙に吸い上げられている証拠の生データだ。(あった……。これだけの規模の資金洗浄なら、大河内親子どころか三島宗一の責任問題にまで発展する)プログレスバーがゆっくりと進み、ダウンロードが進行していく。[進行度:42%……55%……]その時、室外で見張りをしていた絢人が素早く部屋へ滑り込み、背後の扉を静かに閉めた。「佐倉先輩、警備員の見回りが来ます」絢人の低い囁きに、心臓が跳ねた。「エレベーターの稼働音が上がってきました。あと数十秒でこのフロアに到達します」「ダウンロード完了まで、あと一分かかるわ……!」端末の画面を凝視する。今USBを抜けば、データは破損して手に入らない。「こちらへ」絢人は私の手首を掴むと、端末の影にある大型書類保管庫の引き戸を開け、私を中に押し込んだ。自身も滑り込み、外から見えないよう扉をわずかに隙間を残して閉める。大人が二人入るにはあまりに狭い空間。背中は冷たいスチール棚に押し付けられ、正面からは絢人の胸元が隙間なく密着していた。彼の体温と、微かに漂う洗練された香水の匂いが鼻腔をくすぐる。「……っ」あまりの距離の近さに息を呑むと、絢人は人差し指を自分の唇に当て、静かに首を振った。外の廊下から、コツ、コツと規則正しい警備員の革靴の
根津親子の失脚から数日、東城デパートの社内はまだ落ち着きを取り戻していなかった。外商部長の席は空席となり、現場の空気はどこか浮き足立っている。だが、そんな混乱を嘲笑うかのように、経営陣の動きは迅速だった。「来週付で、外商部には財務担当常務・大河内厳さまの推薦で新しい部長代理が送り込まれるそうだ」給湯室の向こうで交わされる社員たちの噂話を聞き流しながら、私は冷めた緑茶をデスクへと運んだ。大河内厳。三島宗一の右腕として長年財務を牛耳り、デパートの巨額な資金運用と裏金作りを一身に担ってきた男だ。そして、15年前に父・東条正義を追い詰めた裏切り者の一角でもある。(根津の後釜を自分の派閥で埋めて、外商部の利権をそのまま奪うつもりね……)デスクに戻ると、隣でPCのキーボードを軽快に叩いていた絢人が、画面から視線を外さずに口を開いた。「佐倉先輩、少しお時間よろしいですか?」「ええ、何でしょうか」絢人は手元のタブレットをこちらに向けた。画面には、東城デパートの過去3期分の決算資料と、関連子会社の資金移動グラフが表示されている。「先ほど、財務部から新しい予算管理の通達が回ってきました。名目は『根津前部長の不正を受けたコンプライアンスの強化』ですが……実際は、大河内常務の息子である大河内駿チーフが、外商部の決済権限を財務部へ一本化するための布石です」「大河内駿……」「東大経済学部卒で、外資系投資銀行を経て財務部に中途入社した男です。父の権力を背景に、複雑な海外ペーパーカンパニーを使ってデパートの裏金を洗浄している……三島家の最も強固な『金庫番』ですよ」絢人は平然とした声で、実の父親と側近たちの暗部を解説してみせた。その落ち着き払った態度に、私は眼鏡のフレームを押し上げながら低く問いかける。「その大河内親子の裏金スキームを暴けば、三島グループの資金源は完全に断たれるということね?」「その通りです。ただし、大河内常務は根津前部長のように浅はかではありません。裏金の生データは社内ネットワークから完全に切り離され、財務部の最深部にある『特別アーカイブ室』の専用端末にしか残されていない」「特別アーカイブ室……」入館権限を持つのは役員と一部の財務部上層部のみ。一般社員である私には、扉を開けることすら不可能な要塞だ。絢人はふっと口角を上げ、私をまっすぐに見つめた
夜の冷気が路地裏に立ち込める中、私はビンテージショップの重い扉を押し開けた。カウベルの乾いた音が響く。カウンターの奥では、駆がノートPCの青白い光に照らされながら、手元のキーボードを叩いていた。「遅かったな、志乃」顔も上げずに駆が言う。灰皿には吸い殻が山のように積まれていた。「根津親子の件、ネットの反応は上々だ。息子の健太は契約解除、親父の栄治も背任の疑いで検察が動きそうだぜ。まずは一匹片付いたな」「ええ。ありがとう、駆」私はカウンターの席につき、バッグからシルバーのUSBメモリを取り出してことりと置いた。駆の指が止まる。視線を画面から外し、不審そうに金属の小片を見つめた。「……なんだ、それ」「三島グループの機密金庫と、取締役会専用サーバーのアクセスコードよ。三島宗一の裏口座のリストも一部入っているわ」「は? どこで手に入れた」「絢人からよ」店内の空気が一瞬で凍りついた。駆はゆっくりと顔を上げ、細めた目で私を射抜くように見据えた。「……あいつ、お前の正体に気づいてんのか」「ええ。7年前に自殺を止めたのが私だってことも、母のことも、全部知っていたわ」「なっ……!」駆は椅子を蹴るように立ち上がり、カウンター越しに私の腕を力任せに掴んだ。その瞳には、かつて見たことがないほどの焦燥と怒りが宿っている。「おい、正気かよ! なんでそんな危険な奴を生かしてんだ! すぐに姿を眩ますか、あいつを消す算段を立てるべきだろ!」「落ち着いて、駆。痛いわ」私は眉ひとつ動かさず、冷徹に言い放った。「絢人は私を告発する気はないわ。それどころか、復讐に協力すると言ってきたのよ。このデータがその証拠よ」「協力だあ? ふざけんな!」駆は吐き捨てるように声を荒げた。「仇の息子が、自分の父親を売るために敵に手を貸す? そんなイカれた話があるか! そいつはお前を利用して何か企んでるか、お前を道連れに破滅する気だぞ!」「それでも構わないわ」私は駆の手を冷たく振り払った。「使える駒はすべて使う。それが三島宗一の息子であってもね。三島家を内部から瓦解させるのに、これ以上の手札はないわ」「志乃……ッ」駆は苦々しげに顔を歪め、言葉を失った。「解析をお願い。このデータが本物かどうか、あなたが確かめて」私はそう言い残すと、背を向けて出入り口へと歩き出した
「僕をあなたの本当の『仕事』に付き合わせてもらえませんか?」早朝の外商部オフィスに、絢人の声が静かに響いていた。私は背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、眼鏡の奥で目を細めた。表情筋を総動員して感情を押し殺し、冷淡な声を作る。「……何の冗談かしら、三島さん」「冗談に見えますか?」絢人は一歩も退かず、澄んだ瞳で私を見据えていた。「七年前、僕が生きていられたのはあなたのおかげです。そして、僕がかつて心を救われた女性……東条華江さんの娘さん。東条志乃さん、それがあなたの本当の名前ですね」私の喉が小さく鳴った。隠し通してきた過去と正体。それが、父を殺した仇の息子によって、完璧に暴かれている。「知っていて、なぜ今まで黙っていたの? 私を警察に突き出すことだってできたはずよ」「突き出す理由がありません」絢人は穏やかに首を振った。「僕はこのデパートの腐敗も、父が過去に犯した罪も知っています。そして、あなたが復讐のためにここへ来たことも。……僕はあなたを止めるつもりはありません」「……信じられるわけがないでしょう」私は冷ややかに言い捨てた。「あなたは三島宗一の息子よ。いずれはこのデパートを継ぐ身。そんなあなたが、自分の家を壊そうとする私に協力するなんて、罠以外の何物でもないわ」「そう疑うのも無理はありません」絢人は上着の内ポケットに手を入れると、小さなシルバーのUSBメモリを取り出した。それを私のデスクの上に静かに置く。「これは?」「三島グループの機密金庫と、取締役会専用サーバーへのアクセスコードです。父が個人で管理している裏口座のリストも一部入っています」私は目を見開いた。「……これを私に渡して、どうするつもりなの」「使ってください。僕が本気である証拠です。これがあれば、父の側近たちの不正を暴くのはもっと容易になるはずです」デスクの上のUSBメモリを見つめる。これが本物なら、復讐の速度は跳ね上がる。だが、それと同時に、この男の底知れない闇に足を踏み入れることになる。「なぜそこまでするの。あなたにとって、何のメリットもないはずよ」「メリットならありますよ」絢人はわずかに口角を上げ、どこか哀しげに微笑んだ。「あなたが復讐を果たし、すべてが終わるその瞬間まで……僕があなたの隣にいられる」狂気すら孕んだその瞳に、私は息を呑んだ。こ
根津親子の連行から数時間後。東城デパートの社内にさらなる激震が走った。社内処分だけで終わらせる気など、私には最初からなかった。駆の手によって、健太が主導していた模倣品の流用ルート、パワハラ動画、さらには根津部長の裏金口座を示す決定的なデータが、SNS上へ一気に流出・拡散されたのだ。「ネットで大炎上してるぞ……! ニュースにも出てる!」「根津部長、完全に終わりだな……」オフィス内にざわめきが広がる。社内での地位だけでなく、彼らは社会的にも二度と再起できないどん底へ叩き落とされた。(15年前の裏切りの報いよ。まずは二人……)私は静かに立ち上がり、勝手口から夜の街へと踏み出した。◇人通りの途絶えた路地裏。ビンテージショップの扉を開けると、カウベルが低く鳴る。「派手にやったな、志乃」カウンター越しに駆が煙草の煙を吐き出した。モニターには、根津親子の不正を報じるニュース画面が映し出されている。「ええ。これで根津親子は完全に終わりよ。ありがとう、駆」パイプ椅子に腰掛け、深く息を吐き出す。胸を満たすのは、冷たい達成感と、僅かな疲労感だった。駆は煙草を灰皿に押し付けると、不意に真顔になって私を見つめた。「……で、例の三島のボクちゃんはどうなんだ? 根津が失脚して、社内は大騒ぎだぞ」「絢人は何も気づいていないわ。私を疑う素振りをしながらも、結局はただの優秀な御曹司よ。私の次のカードとして、うまく扱ってみせる」「……そうかよ」駆はどこか納得のいかない表情で呟いた。「ならいいが……あいつの目つき、ただの坊ちゃんじゃねえぞ。深入りしすぎるな」「分かってるわ。私を誰だと思っているの」私は立ち上がり、店を後にした。◇翌朝。根津部長が不在となった外商部オフィスは、静まり返っていた。誰もいない早朝のオフィスで書類を整理していると、背後から静かな足音が近づいてきた。振り返ると、そこに立っていたのは絢人だった。「おはようございます、佐倉先輩」「おはようございます、三島さん。朝早くからどうされたのですか?」私はいつもの地味な先輩社員の笑みを浮かべた。しかし、絢人は笑い返さなかった。上質なスーツを纏った彼は、まっすぐに私を見つめると、ゆっくりと深々と頭を下げた。「三島さん……?」「佐倉先輩。……いえ、東条志乃さん」低く通る声で紡がれたその名